高野山町石道は、高野七口といわれる高野山の登山道七本のうち、弘法大師空海によって高野山の開創直後に設けられた参詣道で、紀ノ川流域の慈尊院(海抜94m)から高野山壇上伽藍(同815m)を経て高野山奥の院弘法大師御廟に至る高野山への表参道です。 町石道が開かれた当初、弘法大師は慈尊院から高野山までの道沿い一町(約109m)ごとに木製の五輪卒塔婆を建立したとされます。 しかしその後風雨にさらされるなどして老朽化したため、文永2年(1265)頃に、鎌倉幕府の有力御家人、安達泰盛らの尽力で朝廷、貴族、武士などの広範な寄進により、朽ちた卒塔婆に代わって石造の五輪卒塔婆が建立されたと言われ、ほぼ完全な形で今日に遺されています。 |
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慈尊院にある町石(180町石) | 案内図へ |
@ 慈尊院 から 142町石 | A 141町石 から 80町石 | B 79町石 から 12町石 | C 11町石 から 奥の院 |